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Lunetra
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SS Black Swan

黒い白鳥と白い烏


「人の心って、いくらで買えると思いますか」
 
 婚約指輪がテーブルを転がる度、乾いた音を立てる。
 深夜営業のファミレスに人はあまりいない。沈黙を遮るように口をつけたアイスティーはぬるかった。
 
 広瀬 世南(ヒロセ セナ)は落ち着いた空気が好きだったが、この沈黙には息が詰まるような感覚を覚えた。
 沈黙が続くと、否が応にも他の事柄がよく頭の中に入ってくる。例えば、店全体に漂う香りの良いコーヒーの香り。安っぽいと言うと聞こえは悪いが、広瀬はこの雰囲気が新鮮で好きだった。しかしそれさえも、この沈黙を前に広瀬の心を和ませることはできないようだった。
 上手く口が動かない感覚に怯えながら、ぎりぎりで声を絞り出す。

「僕は、あなたの心が欲しい」
「……」

 広瀬が今目の前に相対している男、長門 聖(ナガト セイ)は静かに口を閉ざしている。彼は広瀬のように気まずい空気に耐えきれずコーヒーに口をつけるのでもなく、ただこちらをじっと見つめている。
 
「でも、あなたにとってそれは非売品らしい。だから、いろんな手を尽くしてきました」
「……」 
「僕は、いつ報われるんですか」

 長門は答えない。
 広瀬のアイスティーと比べて、長門のコーヒーは減っていなかった。それもそうだ。この人は1回も口をつけていない。

 長い沈黙で広瀬の話が終わったのを確認して、長門が口を開いた。

「俺がお前が嫌いだ。だからお前の愛に報いを与えてやるのは無理だ」
 
 待ち侘びていた返事は、だひたすらに無慈悲な一言だった。
 とはいえ、この人の口から肯定的な言葉が出てくると考えていたかといえば、嘘になる。
 
「理由を教えてください」

 しかし、広瀬がこんな言葉で諦められる人間ならこんな棒にも箸にもかからない男などとっくに諦めていた。そして、そのことを長門もよく知っている。
 欲しいものはすべて手に入れろ。広瀬は父親にそう教わって生きてきた。
 
「まず、1つ目な」
 
 故に長門は驚くほど落ち着いていた。もっとも2人にとって、この状況は初めてではなかった。
 
「俺は男だ。男に興味はない。だからお前がどう努力して変わっても好きにはならない」
「性転換しても?」
「2つ目。そういうところが気持ち悪い」

 そう言い放った彼の目は恐ろしいほど濁っていて、冷めたコーヒーなど比べものにならない黒を主張していた。
 コーヒーは闇より深いこの世の深淵を表していると言うが、こんな深淵はなんの慰めにもならない。

「ところでこれ、新しいやつか」

 長門はテーブルの上を転がっていた婚約指輪を手に取って言う。

「前回は青が嫌いと言われて断られたので、買い直してきました。天然のブラックダイヤモンドです。700万しました」
「キッショ……」

 あまりにも素直に拒絶されてしまったので、広瀬にはこれ以上出せる言葉がなかった。

「前回は300万だったよな?」
「やっぱり積んだ金が正義じゃないかと」
「どれだけ重くても俺はお前が嫌いだからな」

 広瀬が婚約指輪を長門に突き出すのは初めてではなかった。ただ、いちいち変な理由をつけて断られてきたので、真っ向から受け付けないと言われたのは今回が初めてだ。

「ならなんでファミレスなんだよ」
「前回ドレスコードでブチギレてたので」
「いらねえ配慮だな」

 そんなところで、広瀬が手持ち無沙汰にちょくちょく口をつけていたアイスティーが枯渇した。長門は全くコーヒーを減らさないので、数秒間何の動きもない沈黙が続くことになる。
 先に目を逸らしたのは広瀬だった。先程から妙に、視線が下を向いてキョロキョロとしている。

「なんだ、ショックでも受けてるのか?」
「はい。気持ち悪いを短時間で2回言われたのは人生で初めてです」
「仕方ないよ、だってお前気持ち悪いもん」

 言ったそばからの3回目だった。
 広瀬の20年ちょっとの人生で、「嫌い」と言われたことはあれど、「気持ち悪い」と言われたのは今日が初めてだ。 
 長門に普段言われないことを言われるなんて、新鮮な経験の一部でしかなくて、本人だって、自分にその言葉を突き刺そうと言っているわけではないのに、広瀬の心臓はきゅっと縮まった。
 
「なんで突然……今回だけ、変な理由をつけて断られなかったんですか」
「俺なりの誠意だ。流石に居た堪れない。これ以上お前が俺に時間と金を使う必要はないだろ」

  その一言を聞いた瞬間、唐突に広瀬の心に重苦しい感情がのしかかってきた。その理由がわからなくて、もっと辛くなる。
 喉が渇いて、脚が震える。
 緊張に由来するのかは知らないが、今の自分が安心の対極にいることだけは理解できた。
 机のお陰で、震えている両脚が長門に見られないのだけが幸いだった。
 
 広瀬が長門に初めて出会った時、「金で買えないものがある」ということを思い知った。
 そしてたった今広瀬は、「金も全力も全てを尽くしても手に入れられないものがある」と、感じてしまった。
 
「……諦めませんよ」
「諦めてくれた方が嬉しい」
 
 さっきなぜ急に息苦しくなったのか、広瀬は理解した。この男が、本当に自分のためを思って突き放していることがわかってしまったからだ。悪意のない言葉が、こんなに自分を傷つけるなんて知らなかった。
 暖色の照明が揺らいで、視界が不明瞭になる。

「おい、泣くなって……」
「泣いてません」
 
 広瀬がガタン、と立ち上がる。 
 
「とりあえず……また、性転換して出直してきます」
「思い切りが良すぎる。お前、男じゃないと会社継げないんじゃないのかよ」
「そんなのはどうでもいいんです」

 まだ全力を出したというには足りない。自分にはもっとできることがある。広瀬は自分の人生に、諦めるという字を刻むのは嫌だった。

「だから、これ以上お前が俺のためにどうにかする必要なんて――」
「うるさい」

 突き放すような広瀬の言葉に、長門は一瞬驚いたような顔をした。
 妙な沈黙が流れた後、広瀬は再び家族席の長いソファに座り直す。それからずっと長門を見つめていたが、一言も言葉を発すことはなかった。

「ああ……このコーヒー、冷めてるな」

 かける言葉が思い当たらなかったのだろう、長門は一度も口をつけていなかったコーヒーを飲み始めた。でもそのペースなら、ものの十数秒で飲み終わってしまうに違いなかった。


 広瀬は30年ほど前に表舞台に姿を現した大企業、アスノミライ(C)の元締め、広瀬康司の一人息子だ。つまるところ、日本の金持ち高校生を上から数えて2桁には入る、大企業の御曹司だった。
 人間は金と地位に逆らえない。望んだものは全て手に入る。金で買えないものはない。子供にしてそんな歪み切った価値観を形成していた広瀬が初めて心から欲したものは、とある一般人の男の心だった。
 出会いは2年前に遡る。まだ高校生だった広瀬は、予備校の帰り道で長門に出会った。冬の8時はもう真っ暗で、彼の黒い髪と瞳が、空に沈んでいたのを覚えている。

 帰路で3つ目のガードミラーを超えた先で、壁に寄りかかっていた同年代らしき男に声をかけられた。
 
「おい、お前」
「なんですか」
「金持ってそうだな」

 またこれか、と広瀬は思った。
 顔、服、歩き方、etc。全身から溢れる温室育ちオーラを隠すことは難しい。特にこういう不良は、「おいしい獲物」「しけた獲物」「手を出しちゃいけないやつ」を嗅ぎ分けるのが得意なのだ。
 広瀬は不良にビビリこそしないが、体力は見た目相応にないので、ボコボコにし返すことはできない。その代わり、こういう時は大人しく金を差し出すのが最適解だと知っていた。
 広瀬は慣れた手付きで革財布を取り出し、2000円を取り出す。

「これしかないんです。許してください」
「は?」
  
 しまった、と思った。どうやら黒ずくめの不良さんはキレたようである。広瀬は大根演技に自信があった。

「カツアゲじゃねえよ……もうちょっと気をつけて歩けって言ってんだ」
「……?」

 広瀬は目の前の目つきが悪い男の台詞が理解できなかった。

「だから……そんなフラフラ歩いてたら目つけられるぞ。見た感じ金持ちだろ。誘拐とかされたらどうすんだ」

 その時、具体的に何を思ったかは覚えていない。
 ただその時、どう形容すべきか、薄いコーヒーよりも希薄な人生経験で一度も感じたことのない「安心」を感じたのは確かだった。

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