結婚詐欺師脅迫して結婚迫ってみた
月が綺麗だった。
秋の空気はすでに冷たい。こんな時に走ると喉が痛くなる。
「茜さん」
「あれ、志音さん。わざわざここまで来てくれたんだ」
深夜の路地裏という場所に一切似合わない、白一色で露出が少なめの、どちらかというとワンピースに近いドレスを着た、腰まで届く茜色のストレートヘアの女は、こちらを一瞥して直ぐに驚いた表情を浮かべた。
「そんなに息を切らしてまで来てくれたの? 嬉しい」
そう言って女は目を細め、微笑む。
おそらく、魔性の女とはこういう女を表すための言葉なのだろう。
「それで、返事はどうかな?」
そう言って女は、後ろで組んでいた腕を体の前でぴんと伸ばし、足元にあった白一色のスーツケースを手に取った。
「……はい。例の件はオッケーです」
苦々しい「返事」に、女はそれは無邪気に笑う。
「やった!」
女は欲しいゲームを親に買ってもらった子供のようにあどけない声をあげて喜ぶ。その喜びようと言ったら、一瞬命とも言えるはずのスーツケースから手を離して、両手でガッツポーズを作っていた。
「手を離したら危ないですよ。僕がその隙に奪い取ったらどうするつもりですか」
「そうしたら、一巻の終わりだね」
女はこちらの冷や汗を気にも止めず、口に右手を当てて笑ってみせる。
「でも大丈夫。志音さんにそれはできない……だって、貴方は姉さんに罪悪感と未練があるんだから」
月の光と冷たい風が、建物の隙間を通り抜ける。
月光を反射して輝く忌々しい茜色の髪は、なかなかどうして神秘的といえた。
三島茜。
ここからすぐ近くにある稲葉万葉大学の学生で、年齢は22歳。
知り合ったのは半年前で、知り合いの開いたパーティで初めて言葉を交わした女だ。
その時、俺は気付けなかった。
彼女が、一年あまり前、俺が交際していた女「三島紅羽」の妹であったことを。
彼女は知っていた。
俺がする気のない結婚を餌に、交際相手の女から金品を巻き上げる……所謂「結婚詐欺師」であることを。
俺たちは知っている。
俺がこれまで積み重ねてきた全てを無にできる、数々の決定的な「証拠」が、彼女が抱えるその真っ白なスーツケースの中に詰まっていることを。
茜は遠くを見ていた目をこちらに合わせて、およそ20cmの身長差をものともせずに近づいてきた。
「それじゃあ、改めて……柊志音さん」
今回、この女がスーツケースと引き換えに出した条件。それは、
「私と結婚してください」
「……よろこんで」
その手の温度は、思っていたよりも低かった。